赤塚不二夫の家族は?長女赤塚りえ子の経歴と現在の家族二人の母

 

赤塚不二夫の娘、赤塚りえ子さんはフジオ・プロダクションの社長であります。

りえ子さんは24歳の時にアルバイト先で知り合ったという新入社員の男性と結婚しましたが、3年後に離婚をしています。

2002年に37歳の時に、当時34歳だったイギリス人の男性ジョン・レイトさんという方と再婚しています。

子供について調べていたのですが、情報がないので子供はいないのかもしれません。

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りえ子さんは不二夫さんと最初の妻である登茂子さんとの間に生まれたお子さんです。

登茂子さんと不二夫さんはりえ子さんが8歳の時に離婚しました。

不二夫さんはその後、眞知子さんという方と再婚しています。

眞知子さんと母の登茂子さん、りえ子さんと共に仲が良かったそうです。

登茂子さんは、情が厚く、きっぷのよい“肝っ玉母さん”として知られました。

 

 

父親・赤塚不二夫についてりえ子さんは語っています。

 

『パパを一言でいうなら、とにかく「可愛い人」でした。女性にモテて、お酒が大好きで、
ママも「パパは本当のプレーボーイ」と言っていました。すごく純粋で、少年みたいな人だから、女性は母性本能をくすぐられるみたい。

パパは眞知子さんという女性と再婚しましたが、浮気性は変わりません。ある日、家に来た女友達が帰るとき、
パパは「駅前まで送ってくる」と言って、一緒に出かけました。
眞知子さんは女性に「だんなさんと食べてね」とビーフシチューを鍋ごと持たせてあげたんですが、

待てど暮らせどパパが帰ってこない。なんと、その女性とそのままラブホテルに行ってしまったんです。

しかも、そのラブホテルはパパの行きつけで、いつもツケで入るものだから、眞知子さんがあとで支払いにいく。
眞知子さんはとてもおおらかで心の広い人でしたが、
このときばかりは「『鍋持っていくんじゃないよっ』ってその女に言ってやった」と怒ってました。』

 

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10人いっぺんに居たわけではないでしょうが、何人もの愛人がいたのは事実です。

奥さんと愛人と暮らしていたような話も残っている程です。

デビュー間もない頃は当時はさわやかなイケメンで有名でした。
物凄い数の連載と数々のヒット作を出してるわけですから 無茶苦茶稼いでましたし 、タレント業界(テレビや映画などの関係の企画案や仕事もしているので)とも関係を持ち30歳過ぎた素人のタモリさんをテレビ業界に放り込める程、 権力で重要であるコネクションも持っているわけです。
自身も漫画を書く傍らテレビや雑誌に出演したりして顔も売れていたので、 派手に遊んでいたようです。

 

私生活は破天荒な不二夫さんですが、りえ子さんを溺愛していました。

 

赤塚不二夫さんは50歳前後には、アルコールが原因で数々の問題を抱えるようになりました。

執筆活動は滞りスランプ状態にいた赤塚さんはお酒に溺れ入退院を繰り返しました。

誰かの援助がないと危なっかしい状況の時に、登茂子さんが周囲が不二夫さんのお酒に手を焼いているのを見て心配した登茂子さんが、眞知子さんと再婚を勧めたとも言われています。

腰の重い不二夫さんに代わり、役所から婚姻届の用紙を取り寄せ、「これにサインして」と突きつけました。

再婚会見の際にも「保証人」として同席して話題になりました。

 

不二夫さんは食道がんを患っていました。

手術後どんどんと体調を壊し、結局、意識不明の直物人間のまま、2008年72歳で亡くなりました。

赤塚さんが息を引き取る3日前、前妻登茂子さん(享年68)が病死しました。

赤塚りえ子さん(43)が父の容体急変を聞いたのは、母の遺体の前だったそうです。

赤塚さんの葬儀日程は前妻の葬儀終了後に決定しました。

関係者によると、登茂子さんが病死したのは先月30日。斎場の都合などで、葬儀日程がなかなか決まりませんでした。

赤塚さんの容体急変が病院から知らされた際、りえ子さんは棺のそばで、母子2人の最期の別れを惜しんでいました。

母の死から3日後、ショックも覚めやらぬうちに父の死が訪れたことになります。

 

葬儀の時タモリさんの弔辞が話題になりました。

単なる師弟関係と言うにはあまりにも大きな絆でつながれていたタモリさんと赤塚不二夫さんとの関係。

タモリさんが赤塚不二夫さんに宛てた「人生で最初の弔辞」には、赤塚不二夫さんの人生や人とのかかわりが名言となって表されています。

赤塚不二夫さんの葬儀では、タモリさんは本名の“森田一義”として弔辞を読みました。

白紙の巻紙を手に7分近くの弔辞を読んだタモリさん。

よどみなくお別れの言葉を述べたことで、大きな話題をよんでいました。

福岡在住の素人だったタモリさんに惚れこみ、芸能界デビューへのレールを敷くなど、その才能を世に知らしめるバックアップした不二夫さんはタモリさんに高級マンションに住ませて、自分は質素な生活を送っていました。

 

 

数々の破天荒すぎる自身のエピソードを持つ不二夫さんについて、りえ子さんに素顔について尋ねると「実はすごい常識的な人なんです」と答えています。

数多いキャラクターの中で、「めんたまつながりのお巡りさん」が1番近いそうです。

「意外かもしれないけど、性格は決して天然じゃない。ルールを分かった上で、それをわざと壊しているんです。人を喜ばせよう、楽しませようとするサービス精神が旺盛すぎるだけ。でも、度を超えると人の迷惑になっちゃう。

父はいつもお酒を飲んでいたけど、飲まないと人と目を合わせられなかった」と語っています。

また、98年に赤塚さんが食道がんを患った直後の言葉が忘れられないと言ってます。

「バカっていうのは自分がハダカになることなんだよ。世の中のいろんな常識を無視して、純粋な自分だけのものの見方や生き方を押し通すことなんだよ。だから、バカだからこそ、語れる真実っていっぱいあるんだ。最後につじつまが合ってりゃ、 何やってもいいんだよ。これでいいのだ!」

それを聞いた瞬間、あっ、これがバカボンのパパの名ゼリフ『これでいいのだ』につながっていると分かった」と、りえ子さんは語っています。

 

赤塚不二夫さんが、なぜ多くの人に愛され、慕われたのか、それはきっと赤塚不二夫さん自身が持っていた人間愛、笑いが作品の中の愛くるしいキャラクターたちが、赤塚不二夫世代でない今の若いひとたちにもずっと支持されています。

私生活まで含めて、おもしろいことならなんでもやってみる子供のような純な気持ちを持っていたからだでしょう。

「漫画を地でいった人」と評されてもいます。

 

赤塚不二夫のプロフィール

本名  : 赤塚 藤雄

生年月日: 1935年9月14日

出身地 : 旧満州国・中国熱河省承徳市

1956年、漫画『嵐をこえて』でデビュー。1962年より、漫画『週刊少年サンデー』(小学館)で、『おそ松くん』が連載スタートし、知名度が上がる。ギャグマンガを次々に生み出していき、漫画界において欠かせない存在になる。

代表作:おそ松くん ひみつのアッコちゃん

天才バカボン もーれつア太郎 レッツラゴン

 

赤塚りえ子のプロフィール

生年月日: 1965年3月11日

出生地 : 東京都新宿区歌舞伎町

学歴  : ロンドン大学ゴールドスミス校ファインアート科卒業

職業  : 現代美術家、フジオ・プロダクション社長

著書  : 「ゲゲゲの娘、レレレの娘、ラララの娘」

※水木悦子(水木茂の次女)、手塚るみ子(手塚治虫の長女)と共著

「バカボンのパパよりバカなパパ赤塚不二夫とレレレな家族」


 

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